Diaryのように・・・③ 海が見たいとか・・・

海が見たいとか・・・海風に当たりたいとか・・・

海じゃなくてもいい、大好きな軽井沢の空気を胸に吸い込みたいとか・・・

そんなことを思いながら過ごす平成最後の夏。

我が家はお祭り騒ぎ(爆)。ま、いいけど・・・

日常の色々でいつの間にか失ってしまった私自身の習慣のあれこれを

取り戻そうと画策・・・しています。例えば眠りにつく前の読書の時間。

例えば、T女史に勧められている一日の終わりの局所冷却の時間。

そしていつの間にか時間が取れなくなってしまったホットヨガ・・・復帰したい。

心を鎮めて、少しずつ取り戻していこう・・・

 

ところで・・・

あれ?もしかしておかしくない?それって・・・と数年前に思ったことがある。

それは「そもそも評価と言うものは、他人・・・つまり第三者がするものであって

本人・・・つまり自分自身がするものではないはず」と。

そう、つまり自分で自分のことを評価するって・・・妙なことなんじゃないのかしら?

結局そこが、何て言うのか、違和感を感じてしまうところ。

そして夜毎発信される画像や言葉にそういう違和感を感じた時、何となく胸のつっかえが

取れたような気がした。あまりにも今「自分で自分を評価してしまっている人

あるいは評価してほしがってる人」が多すぎる。そういう想いだけが積極的に

前に出過ぎて何かにとりつかれたように自分を発信し過ぎている

ヒトが多すぎる・・・。それを社会では承認欲求と言うのだと思うけど、私は

承認欲求と言うのではなくて、結局『評価』を求めすぎていて、それが何となく

悲しいというか、バランスを欠いているというか・・・

もちろん若く未熟な時にはそういう欲求は誰しも持ち合わせてはいる。

あらゆる可能性が目の前に広がり、何でもできると思い・・目の前に広がる

つかみどころのない世界に、つかみどころがないからこそ自由と無限の

可能性を感じる。

けれども・・・それなりの年齢になってくるとそういう承認欲求とか『評価されたがり』

はどうも・・・何かが抜け落ちてる気がしてならない。

Privateなことでの部分についてはあえて、ま、素知らぬ顔をしておくけれど

仕事においてそういう『自分で自分を評価したり、誰かに評価を求めすぎたり』は

もしかして結局は『プロではない』ということになるのでは・・・とその頃私は

思うようになり、自分自身の発信にはそういう部分を絶対に匂わせないことに

決めたという経緯があるのだ。これは職種によって色々と微妙な

部分もあるとは思うけど・・・。少なくとも私自身は止めようと思った。

『自分で自分を評価する』『自分のことに評価を求める』・・・悲しい。

そして幼稚だと感じた。もちろん、何かの作品なり仕事なりをする場合

自信のあるもの、責任の持てるものを発信していくのは当然だし、

長い道のり「よく頑張ったな・・・」と自分自身をねぎらう気持ちを持つことは

誰にもあることだけれど、そういのとはちょっと違う種類の

『評価』というKeyWordが数年前には溢れていて、やはりそれは

仕事人としては信用できないな・・・と既知の人に対して思わざるを得なかった。

それに・・・そこからもっと何かに歯止めが効かなくなると・・・

どういう訳か、まるで自分自身が全知全能であるかのような言葉を

並べる人も出てきて・・・ますます、あぁ、言葉の世界はオソロシイなと

感じたのだ。

私は、静かに愚直に今を重ねてひたすらに

思う方向へと努力を重ねようと思った。そしてはそういう裏側は決して

微塵も表には出さないと決めた。

自分自身の仕事・・・私の場合は作品の数々に対しては、クール過ぎるほど

クールなPositionを守りつつ進んでいこうと。

ま、そんな感じです。

そう思えるようになった瞬間から、それまで疑問に思ってきた謎のようなものが

するすると溶け始めて、少し気持ちが軽くなりましたとさ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です